孫子・解説
「孫子(前480頃)」は中国の春秋時代に斉(山東省)に生まれ、揚子江下流で栄えていた呉の「闔閭(こうりょ)」に仕えた「孫武」の著作と伝わる。南方の新興国の「呉」がしだいに発展し、西方の強国「楚」を破ってその首都に進攻し、北方では「斉」や「晉」をおびやかし、南方の「越」と善戦したのは、「孫武」の働きによると伝えられている。「闔閭」に「孫武兵法十三篇」を献じて将軍に任ぜられたのが前512年頃として呉王「夫差」に疎まれ「伍子胥」が没した前484年から約十年後には「呉」も滅亡(前473年)する。「孫武」の末裔と云われる「孫臏(そんぴん)」が「斉」で名を揚げるのが前320年頃であり。後の竹簡「孫臏(そんぴん)兵法」が編まれたのも同時代と思われる。戦国七雄時代末期の法家「韓非子(?~前233年)の中に「境内みな兵を言い、孫・呉の書を蔵する者、家ごとにこれあれども兵いよいよ弱し。戦いを言う者多く、甲を被る者少ければなり」の言が見える頃は既に孫子・呉子その他の兵書も世間に広く在ってまだ庶民の頃の「韓信(?~前196年)」も「孫子」を諳んじるぐらい兵書孫子を学ぶことが出来たと思われる。「秦」が戦国七雄を下し天下を平定するのは前221年である。法家の思想を入れて「挾書律(焚書坑儒)」が発せられて当時の「呉孫子八十二編」も尽く焼き尽くされ、あるいは隠匿されたと思われる。やがて「秦」が滅び「漢」の二代「恵帝」によって「挾書律(焚書坑儒)」が解かれるまでわずか20数年であるが、孫武、孫臏の兵書もその間に多少の錯乱、欠損等の被害を受けて再び世に出たと思われる。その後、約130年後に「司馬遷(前145~前86説)」の「史記(~前90年完成)」で語られる「孫子・呉起列伝」が最も古く唯一の孫武とその兵書の伝記ということになる。1972年山東省銀雀山の貴族の漢墓から出土する「孫子」「孫臏」の竹簡はこの頃(前134~前118)のものと云われる。同じく漢の貴族(劉邦の一族)出身の「劉向(前77~前6)」により宮中の蔵書の校定が行われた。「戦国策」と同様に「孫武の兵書」も一旦は貴重な宮中の蔵書として整えられたと思われる。その後、漢末期の動乱の中で頭角を現わした魏の武帝「曹操(155~220年)」によって注釈された唯一の十三篇が「孫武の兵書」(孫子の兵法)の「原本」として後世に残った。その曹操の「魏武註孫子」が今日世界中に翻訳され広く知れ渡った孫子の兵法「Art of War」の「原作」となっている。1972年に銀雀山の貴族の漢墓から出土した竹簡によりそれまで明確でなかった「孫武」と「孫臏」の関係とその二つの兵書「孫武の兵書」「孫臏の兵書」の存在が明らかになった。さらに曹操の「魏武註孫子」より約330年も古い資料の孫武の兵書(竹簡)が出現したことにより、「孫武」存命の頃より今日まで約2500年の時代から約330年だけ遡った頃の孫武の兵書を人類は手に入れたということになる。しかし孫武の春秋時代から約2500年後の21世紀2022年今日になっても人間が人間を殺してまで何を得ようというのか。やがてその舟も沈もうとしているのに・・・。ただ哺乳類が哺乳類を殺して糧にするような摂理から孫武は何を見出していたのだろうか。