司馬法・解説
「司馬法(前356~前320成立)」は斉の「威王(~前320)」によって古代より伝わる司馬の兵法に「司馬穣苴」の論説を加えて「司馬穣苴兵法」と名付けさせたと伝わる。司馬という名称は古代周王朝時代より軍事を司る官職名であった。周王朝の最大の功臣、太公望呂尚は斉に封じられ斉の始祖となったが太公望由来の兵法も斉に伝わったと思われる。斉の26代「景公(~前490)」の時代「司馬穣苴(生没不詳)」を将軍に抜擢して晋と燕を撃退した、司馬穣苴はその功により大司馬に任ぜられ斉の重鎮となったと伝わる。下って威王の時代に斉は諸侯に君臨した。威王が編纂を命じた当初の司馬穣苴の兵法は百五十五篇あったが時代を経て散逸して、仁本、天子之義、定爵、厳位、用衆、の五篇のみ残ったと伝わる。古代の戦(いくさ)の作法と兵書としての戦争に対する大義理念を説いている。