戦いのルールを学ぶにはそのもとになっている原理をまず理解する必要がある。 その原理から導き出された原則を理解し、併行して状況への適用の仕方を学ばねばならない。
- 「戦理は学びうるし、学ばねばならぬ。」フランスの名将・フオッシュ元帥
- 「戦理は存在する。それを理解し各種の状況に適応させれば、予期以上の成果を収められる 。」日本の名将・武岡陸将
- 「諸君が自ら兵理を会得しようと思ったならば、まず戦史の研究、各種兵書の渉猟を敢行せよ。」秋山眞之
- 「将帥の知識は能力となっていなければならない。」クラウゼウィッツ
- 「驢馬は七年間ユージン侯(名将)に忠実に仕えたが、ついに戦略・戦術を解するには至らなかった。」ナポレオン
- 「此れ兵法に在り、ただ諸君察せざるのみ。」韓信
戦理の要諦
私はかつて中隊長のとき、この適用方法がわからず悩んだことがあった。そのためマニュアル(歩兵操典・作戦要務令)の理解が足りないかもしれないと思って、改めて熟読玩味してみた。しかしそのときは一応わかったような感じはするが、さてそれではこの状況ではどうするかという、状況下の実行要領になると自信のある策案が浮かばない。いろいろ考えた末「実戦を研究してみたら」という、今にして思えばきわめて常識的な、しかも本質的な方法を思いついた。私の手元にたまたま格好の戦例集があったことがこの方法をとらせたのである。私は四冊ある本の中から、歩兵中隊の成功した戦例および失敗した戦例を抽出して研究することとし、毎日夕食後自室の淡いランプ(野戦では電燈がなかった)の下で作業した。方法は、戦例を攻撃篇と防御篇とに分け、ひとつひとつについて、一般状況、戦闘経過、教訓、要図を丹念に写した。それがすむと、ひとつひとつの戦例について、なぜこの場合は成功し、この場合は失敗したかを分析した。そのあと、攻撃で成功するための公約数(二つ以上の数に共通な約数)的な原則はなにか、防御はどうかというように各戦闘行動ごとに、コツともいうべき共通原則を探求した。このように分析を積み重ねた結果、わかってきた原則はなんと、これまで十分理解していると思っていた『作戦要務令』および『歩兵操典』に書かれている原則と、まったく同じものであったのである。このときの私の感激は、四十年経った今でも忘れられない。私はこの理解を胸に秘め次の作戦で活用したが、どんな状況に遭っても、まず迷うようなことはなく、自分でも驚くほどの戦果をあげることができた。※(湘桂作戦において戦功抜群として大本営より「個人感状」、軍司令官より「中隊感状」を拝受された。) 「戦理」の理解はそれを適用できる状態までもっていかなければ、本当に理解したとはいえないのである。-- 武岡先生著「兵法を制する者は経営を制す」(1983年 PHP研究所) 「湘桂作戦体験記」(1979年 湘桂作戦戦記出版会)より --
戦場力学
戦いは力関係の科学である。したがって戦史から導き出された原理・原則も、本来ならばエネルギーの物理学上の原理や性質、あるいはエネルギーの行使に関する理論から導き出すべきものであった。しかし物理学が体系づけられはじめたのは十九世紀に入ってからである。しかし戦いは人類や動物がこの世に出現して以来行われてきた。また人間の歴史のなかで、戦いが記録され、いまの世に残されるようになったのも数千年前からである。
したがって戦いの原理・原則なるものは、科学的な理論からではなく、戦いを体験した人たちの経験をもとに、推論を加えて記録され、次第に体系づけられてきたのが実情である。有名な中国の兵書「孫子」、これなども孫武が記述した『原始孫子』は、大橋武夫氏の研究によると、ごく簡単なものであったらしい。それが時代を経てゆくつれ誰かわからぬ人によって加筆され、現在われわれの目に見る「孫子」になったという。
兵法者の体験をもとに記述された兵書は、科学が発達しない時代背景が原因で、千古不磨の鉄則とはいいながら、力関係の優劣以上に、奇策や詐術、あるいは相手の虚に乗ずる策略が重視されてきた。しかし物質文明が進むにつれ、エネルギー・パワーのウェイトが高まり、その結果、自然界にみられる優勝劣敗、弱肉強食の原理が本然の姿をとり戻してきたのである。そうなると、奇策や詐術はある限界内でしか通用しなくなり、むしろ戦いに勝つには、力の物理的原理を知り、その正しい適用こそが要諦と考えられるように変わってきたのである。
この意味で戦いの力学を知っておくことは、戦理を理解する正道であり、かつ捷路であるのである。この点で先駆者といえるのは「ランチェスター」かもしれない。彼が空中戦から始まって地上戦にいたる多くの戦いを分析した結果発見した、①一騎討ちの法則、②集中効果の法則・・は、戦理の核心部分を述べたものといってよいからだ。
武岡先生-「兵法を制する者は経営を制す(勝利に導く戦理学入門)」-1983年(PHP研究所)「弱者の戦略・強者の戦略」-1989年(PHP研究所)より
此れ兵法に在りただ諸君察せざるのみ
兵法は自然や戦史から帰納的に導き出された普遍的なものである。しかしそれらの兵書(文字)だけを繰り返し読んでもそこに書いてある 原理・原則の言葉から想像される「戦いの状況」は、それを読む人の経験や知識の内に止まってしまいやすい。まったく軍事の経験も知識もない者が軍事的教訓(兵書)だけをもとに「経済活動」や「社会生活」に何らかの効果を期待しようとしても自ずと限界がある。独りよがりの解釈だけでは「原理・原則(戦理)」の適用を誤りやすい。故に、それらの「原理・原則(戦理)」を「戦史」という実例を使って演繹的に検証して、まずその「適用方法」を学ぶ必要がある。後に防衛庁きっての戦略家として「幹部学校」や「幹部候補生学校」の校長を務められることになる陸将の武岡先生でも二十歳足らずで実弾の中をくぐり、貫通銃創を三度も受けられるほどの試練の中で、この原理・原則の適用に悩まれた。「背水の陣」「股くぐり」の故事で有名な国士無双・淮陰侯「韓信」が背水の陣を用いた「井陘の戦い」の敵将(趙王成安君)も韓信を迎え撃つにあたり孫子・謀攻篇の「十なれば則ち之を囲み、五なれば則ち之を攻め、倍なれば則ち之を分ち・・」の言葉を用いて状況判断を行っている。戦いが終った後、韓信の配下の諸将も孫子・行軍篇の「高きを右背に、死を前に生を後に(史記・山陵を右背に水沢を前、左にす)・・・」の言葉を用いて背水の陣の勝因を韓信に問うている。その問いに答えた言葉が「此れ兵法に在り、ただ諸君察せざるのみ・・・(孫子・九地篇)」である。「兵法」は知識と適用(運用)との「差」が勝敗、生死そのものである。(-- サイト主宰者 --)