兵法 徳川家康
--- 「兵法 徳川家康」マネジメント社 昭和57年(1982年)初版 平成13年(2001年)復刻版 ---
兵法 徳川家康
強者の戦法・弱者の戦法
まえがき
徳川家康は、その生涯のうち、注目すべき合戦を四つしている。姉川の合戦、三方ヶ原の合戦、小牧長久手の合戦、関ケ原の合戦がそれである。 姉川合戦は、人質という哀れな境遇から解放された家康が、二十八歳にして初めて自分の軍を率いて、本格的合戦場に臨んだ感激で燃え上がっていたことと、敵の朝倉軍が内部崩壊を始めていて弱かったという幸運に恵まれ、実力以上の成功をおさめて、自他とも驚かせた傑作である。 しかし不幸なことに、家康とその部下の三河武士団は、これを自己の実力によるものと錯覚し、思い上がってしまった。 三方ヶ原合戦は、思い上がった三十歳の家康が、ベテラン武田信玄に立ち向かい、一撃のもとに粉砕されて、その非力を思い知らされた痛棒である。しかし家康の偉いところは、これで挫折することなく、自分とその軍団が弱者であることをすなおに認めて奮起し、強者たることを目指して、一路嶮難の道を進む勇気を持ったことである。もちろん障害は多かったが、彼はそれを自分を鍛える道具とし、成長するための師とした。 小牧長久手の合戦は、人生の最盛期を迎えた四十二歳の家康が、三方ヶ原合戦以後の十二年間の苦難期の試練によって得た教訓と自己啓発のすべてを投入し、最高の戦略戦術を演出して、徳川幕府創建の第一石を打ったファインプレーである。しかしこのときの彼はまだ謀略というものに開眼しておらず、その一点で一歩を先んじていた秀吉に制せられて、戦勝の成果を十分に収穫することが出来ず、秀吉の生存間は、心ならずもその風下に立たざるを得なかった。 関ケ原の合戦は、円熟の境地に達し、強者となった四十八歳の徳川家康が、戦略と謀略を駆使して、兵法の奥義を演出したものである。彼はこの戦勝によって、天下の覇者たるの実をあげた。 ひるがえって現代のわれわれは、最悪の経済情勢の渦中にあり、不確実な見通しの中で、企業の存亡を賭けた意思決定と不屈な実行力とを発揮しなければならないが、そのためにはどうしたらよいか?私はその鍵を、三方ヶ原合戦以後のピンチをチャンスにした家康の生き方の中に索めてみた。彼は強敵武田軍との難戦に立ち向かうことにより、兵法の奥義を会得し、その兵を精鋭軍団にまで鍛え上げた。また恐るべき盟友織田信長の圧迫に堪えつつ密着し、経済戦力の認識、革新戦法の開発、盟友たる我に、妻と子を殺させるという非情さと合理性という彼の長所をわがものにしているのである。本書はこの点にライトを当てて、家康の兵法的生涯を考察しようとしたもので、読者諸賢の御叱正を期待している次第である。
昭和五十七年十一月 大橋武夫
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① |
1584年(天正12年)3月末、織田信雄の救援に応じて小牧山に陣取った徳川家康と織田信雄の連合軍約20000と紀州方面を制圧して大阪城経由で3/27に楽田の陣地に入った豊臣秀吉の約60000はお互い自重して相手を牽制しながら対峙した。やがて4/6夜、池田恒興を主力とする約20000が家康の本拠地である岡崎を衝くために出撃を開始した。
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② |
4/7午後、住民と配下の諜報者から秀吉の岡崎奇襲部隊(池田恒興・森長可・堀秀政・三好秀次)の「情報」を得た家康は慎重な「状況判断」の結果を経て徳川家存亡をかけた「決断」をする。4/8、日没後、小牧山に酒井忠次の約5000を残して秀吉の岡崎奇襲部隊を追撃するため家康・信雄の約15000が出撃する。 |
③ |
4/8深夜に小幡城に入った家康は先ず4/9午前2時頃、水野忠重率いる約4500を先発出撃させて後、自らも主力を率いて長久手の色ヶ根高地に進出して水野忠重の状況を確認した。敵を分断するためすぐさま富士ヶ根を占領して敵を待ち受けた。4/9午前9時頃、進出して来た池田恒興、森長可を討ち取って壊滅させた。家康部隊の出現に驚いた堀秀政、三好秀次部隊は家康との決戦を避けて退却した。 |
④ |
豊臣秀吉は池田恒興以下約20000の岡崎奇襲を「餌兵」として家康を小牧陣地からおびき出して自らの追撃部隊で家康の「挟撃(挟み撃ち)」を目論んでいた。しかし池田恒興の大軍は丹羽氏重(15歳)の守備する岩崎砦の約400に行く手を阻まれて身動きが取れなくなっているところを水野忠重と家康主力に後方から撃破された。4/9昼頃、池田恒興、森長可の長久手敗戦を聞いた秀吉は慌てて自ら主力約20000を率いて救援に赴く。 |
⑤ |
秀吉の岡崎への奇襲部隊(餌兵)を打ち破った家康は堀秀政、三好秀次の追撃を止めて速やかに長久手を離れて4/9午後2時頃、小幡城へ引き上げる。 |
⑥ |
長久手方面の救援に赴いた秀吉は一部隊を長久手に派遣して自らの主力で家康の部隊を追撃した。小幡城に篭もる家康を目指して4/9午後5時頃、龍泉寺に着いたが既に小幡城には家康の影は無かった。 |
⑦ |
長久手の岡崎奇襲部隊を殲滅したのち秀吉の挟撃部隊を察していた家康は速やかに小幡城を経て小牧山の陣地に戻って態勢を整えた。 |
⑧ |
小牧山の陣地で態勢を整えた家康はそのまま楽田の秀吉の本陣を衝く勢いを示した。 |
⑨ |
同じく織田信雄も終始先手主動の家康の機動に従って秀吉の本陣攻撃の態勢を取った。 |
⑩ |
家康の追撃捕捉に失敗した秀吉は小牧山に帰陣した家康、信雄の連合軍が自分の本陣の楽田への進撃を危ぶんでそのまま速やかに楽田に引き上げた。そして再度臨戦態勢で家康・信雄部隊と対峙した。1584年(天正12年)11月中旬まで小競り合いを含めて対峙したが長久手で面目を失った秀吉は敗戦にこだわらず大阪に引き上げて後、織田信雄と和議を結んだ。 |