六韜・解説
「六韜(前200頃)」武経七書の中で著明な兵書で六韜・三略の「韜略」という言葉はそのまま軍略を指すほどである。しかし作者不詳で成立年代も様々な説があった。ただこの「六韜」は1973年山東省銀雀山の漢墓から竹簡として出土しており、秦が全土を統一するまでの戦国時代末期までには既に存在していたと見られている。三略と同じく「太公望呂尚(~前1000頃)」ゆかりの兵書となっている。記述も太公望が仕えた周の「文王(~前1051)」と「武王(~前1043)」との問答形式である。六韜の「韜」は竹簡等の巻物を入れる革の袋のことでそれが六袋ありそれぞれ文、武、竜、虎、豹、犬の名前がつけられた。ことわざで門外不出の秘伝(奥の手)を虎の巻と称するのはこのことである。「史記」の斉太公世家では太公望呂尚の先祖は治水の功績で呂に封じられた姜氏で後裔の太公望は封地にちなんで呂尚を名乗った。年老いて貧窮していた呂尚は漁に名を借りて周の文王の知遇を求めたとあり。呂尚が周に仕える経緯も伝説として様々にある。文韜の頭書もこの文王と呂尚の伝説的な経緯から始まる。呂尚は文王の父(太公)の時代から待ち望んでいた周を隆盛に導く予言された聖人として迎え入れられる。太公望の名前の由来である。秦の始皇帝ゆかりの兵書「尉繚子」武議篇(六)に「太公望は年七十にして、牛を朝歌(殷の都)に屠り、食を盟津(黄河の渡し場)に売る。七十余を過ぐれども、主聴かず。人々これを狂夫と謂えり。文王に遇うに及びて、即ち三万の衆を提げ、一戦にして天下定まる。武議(ぶぎ・兵法)に非ずんば、安んぞ能くこの合あらんや。」とある。文王、武王の軍師として「殷」の紂王を滅ぼして周王朝を打ち建てる。後にその功績で「斉」に封じられた。 「六韜」の内容は広範かつ多岐で政治から兵種、武器に至るまで収録され当世流に編集された実用書として重宝されていたと思われる、三国志(正史)で劉備(161~223)が劉禅(207~271)へ「漢書」「礼記」等とともに「六韜」に学べと遺言している。六韜も三略も太公望に仮託した兵書と思われるがその編纂趣旨は全く異なる。