兵法 徳川家康
強者の戦法・弱者の戦法
まえがき
徳川家康は、その生涯のうち、注目すべき合戦を四つしている。姉川の合戦、三方ヶ原の合戦、小牧長久手の合戦、関ケ原の合戦がそれである。 姉川合戦は、人質という哀れな境遇から解放された家康が、二十八歳にして初めて自分の軍を率いて、本格的合戦場に臨んだ感激で燃え上がっていたことと、敵の朝倉軍が内部崩壊を始めていて弱かったという幸運に恵まれ、実力以上の成功をおさめて、自他とも驚かせた傑作である。 しかし不幸なことに、家康とその部下の三河武士団は、これを自己の実力によるものと錯覚し、思い上がってしまった。 三方ヶ原合戦は、思い上がった三十歳の家康が、ベテラン武田信玄に立ち向かい、一撃のもとに粉砕されて、その非力を思い知らされた痛棒である。しかし家康の偉いところは、これで挫折することなく、自分とその軍団が弱者であることをすなおに認めて奮起し、強者たることを目指して、一路嶮難の道を進む勇気を持ったことである。もちろん障害は多かったが、彼はそれを自分を鍛える道具とし、成長するための師とした。 小牧長久手の合戦は、人生の最盛期を迎えた四十二歳の家康が、三方ヶ原合戦以後の十二年間の苦難期の試練によって得た教訓と自己啓発のすべてを投入し、最高の戦略戦術を演出して、徳川幕府創建の第一石を打ったファインプレーである。しかしこのときの彼はまだ謀略というものに開眼しておらず、その一点で一歩を先んじていた秀吉に制せられて、戦勝の成果を十分に収穫することが出来ず、秀吉の生存間は、心ならずもその風下に立たざるを得なかった。 関ケ原の合戦は、円熟の境地に達し、強者となった四十八歳の徳川家康が、戦略と謀略を駆使して、兵法の奥義を演出したものである。彼はこの戦勝によって、天下の覇者たるの実をあげた。 ひるがえって現代のわれわれは、最悪の経済情勢の渦中にあり、不確実な見通しの中で、企業の存亡を賭けた意思決定と不屈な実行力とを発揮しなければならないが、そのためにはどうしたらよいか?私はその鍵を、三方ヶ原合戦以後のピンチをチャンスにした家康の生き方の中に索めてみた。彼は強敵武田軍との難戦に立ち向かうことにより、兵法の奥義を会得し、その兵を精鋭軍団にまで鍛え上げた。また恐るべき盟友織田信長の圧迫に堪えつつ密着し、経済戦力の認識、革新戦法の開発、盟友たる我に、妻と子を殺させるという非情さと合理性という彼の長所をわがものにしているのである。本書はこの点にライトを当てて、家康の兵法的生涯を考察しようとしたもので、読者諸賢の御叱正を期待している次第である。
昭和五十七年十一月
大橋武夫