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名将言行録

 

名将言行録
立花宗茂 勝海舟 伍子胥 乃木希典

立 花 宗 茂たちばなむねしげ

大友杏葉

立花宗茂
1567~1642

信義、武勇、清廉、
日本史上屈指の名将。

温純、寛厚で人徳があって驕ることがない。功があっても自慢することがない。人を使うのも、おのれの意にしたがってしかも自然である。善にしたがうこと、あたかも自然の流れのようである。佞人を避けて遠ざけ、奢侈を禁じ、民に対しては撫するように恩を与え、士を励ますには義をもってした。そのため士はみな、宗茂の役にたつことをしようと楽しみにした。その用兵ぶりは、奇襲といい正面攻撃といい、いずれも天性の妙を発揮した。ゆえに、攻むれば必ず取り、戦えば必ず勝利を得た。--岡谷繁実(名将言行録・教育社新書17)より--

■ 年 譜 ■

1567(1)
豊後国国東郡にて誕生幼名千熊丸、父は筧城主・吉弘鑑理(大友宗麟の宿老)の次男で吉弘鎮種、後の(高橋紹運)母は大友家重臣・斉藤鎮実の妹、後の(宋雲院)
1570(4)
今山の合戦、大友宗麟、佐賀の龍造寺隆信を六万余の大軍で包囲するも鍋島直茂の奇襲を受け大敗。総大将大友親貞(宗麟・弟)討死。これを機に龍造寺は急速に勢力を拡大していく。
1578(12)
耳川の戦い、豊前・豊後など九州六ヶ国を手中にして九州制覇を目指す大友宗麟と薩摩を中心に南九州から勢力を伸ばす島津軍は日向の高城、耳川にて激戦。指揮を乱した大友軍は大敗を帰す。
1581(15)
筑前立花城主・戸次道雪(立花道雪)の養嗣子となる。
1582(16)
本能寺で織田信長、斃れる。秀吉、山崎にて明智光秀を討つ。
1583(17)
秀吉、賎ヶ嶽にて柴田勝家を破る。
1584(18)
小牧・長久手の戦い。徳川家康、秀吉を破るも後に和解、臣下の礼を取る。
沖田畷の戦い。有馬晴信を支援のため島津家久、島原に進出。激怒した龍造寺隆信は自ら出陣するも、島津の「釣り野伏せ戦法」により討死。以後、龍造寺の勢力は衰退し、島津の勢いは北部九州まで侵攻していく。
1585(19)
秀吉、関白となる。筑後北野の陣中にて立花道雪死去。
1586(20)
大友宗麟、ひそかに大阪に赴き秀吉に救援を乞う。島津義久、大軍を率いて九州を北上、高橋紹運、岩屋城にて玉砕。宗茂、立花城の囲みを解いて撤退する島津軍を追撃。秀吉より「鎮西の一物」と絶賛され感状を受ける。
1587(21)
秀吉、大軍を率いて九州へ出陣。秀吉より島津攻めの先陣を命じられるる。島津義久、秀吉に降伏。大友宗麟死去。秀吉より筑後三郡・柳川を拝領する。肥後国衆一揆討伐に出陣。
1588(22)
一揆首謀者、隈部親永らを柳川城下で放し討つ。上洛して秀吉に拝謁、従四位下に叙せらる。
1590(24)
秀吉の小田原攻めの陣中を見舞う。尾村連続より弓術免許。
1592(26)
秀吉、朝鮮・明への出陣を命じる(文禄の役)。立花勢二千五百余を率いて出陣。
1593(27)
碧蹄館の戦いにて日本軍の先陣を務め、明・朝鮮の大軍を撃退。
1595(29)
帰還後、正室・誾千代を伴い上京、伏見にて秀吉に拝謁、聚楽第の一室を拝領。
1596(30)
明・朝鮮との和議決裂。秀吉、朝鮮への再出兵を命じる。
1597(31)
慶長の役・立花勢再出陣、釜山城、固城に駐留。
1598(32)
般丹の戦いで戦果を上げる。秀吉、伏見で没。日本軍、撤退。
1600(34)
関ヶ原の戦い。西軍に加担し、京極高次の大津城を落す。西軍の敗報に接し、毛利輝元に大阪城籠城を説くも入れられず柳川に帰還。 佐賀の鍋島直茂の攻撃を受ける。加藤清正・黒田如水の調停を受け柳川開城。島津攻め先鋒を命じられる。清正の好意を受け家臣と肥後高瀬に寓居。
1602(36)
家臣、二十余名を伴い上京。誾千代(光照院)肥後玉名にて没。
1603(37)
家康、征夷大将軍となり江戸に幕府を開く。宗茂、江戸に出る。
1604(38)
家康に呼ばれ登城、御所院番頭・五千石を給付される。
1606(40)
二代将軍・秀忠に拝謁。奥州・棚倉一万石を拝領。
1609(43)
家臣小野鎮幸、肥後にて没。
1610(44)
二万石の加増を受け、知行三万石を拝領。
1611(45)
実母・宋雲院没。加藤清正没。
1612(46)
家臣由布雪下、奥州で没。実弟・高橋直次の四男・忠茂を嗣子とする。
1614(48)
大阪冬の陣。実弟直次と共に参陣。
1615(49)
大阪夏の陣。将軍・秀忠に近侍し陣立を助言。
1616(50)
家康、駿府に没。宗茂、将軍・秀忠の御咄衆を務める。
1620(54)
秀忠より、旧領・柳川再封を申し渡される。
1621(55)
旧領・筑後柳川に入城。
1622(56)
江戸参府、秀忠に御礼言上。嗣子・忠茂元服。 1623(57)
秀忠の茶席に陪席。秀忠の上洛に従う。家光、三代将軍に就く。
1628(62)
将軍・家光に従い日光社参。
1629(63)
江戸下屋敷普請。下屋敷へ移る。秀忠より「丸壺の茶入」拝領。
1630(64)
嗣子・忠茂と幕臣・長井尚政の娘と祝言。
1632(66)
秀忠没。肥後加藤家改易。
1634(68)
忠茂を伴い家光に拝謁。
1536(70)
忠茂、下国。立花家什書移譲。
1637(71)
天草・島原の乱勃発。忠茂出陣、原城三の丸攻撃。
1638(72)
家光に請われ、島原に出陣。原城陥落。家光、宗茂の下屋敷を訪れる。「粟田口」の脇差拝領。隠居を許され、法体となる。「立斎」を号す。
1639(73)
家光より「頭巾」を拝領。忠茂参府、襲封の礼を言上。家光の東海寺御成に従い「」を拝領。
1640(74)
家光より病気見舞いの「菓子」拝領。家光より見舞いの使者を受ける。
1641(75)
忠茂、従四位下叙任。忠茂、在府の再延長を願い出る。
1642(76)
五月、忠茂下国。十一月二十五日、宗茂没。江戸下谷・広徳寺に葬られる。戒名「大円院殿松蔭宗茂大居士」。後、筑後柳川福厳寺に改葬。

 


 

名将・立花宗茂 言行録

 

生まれつき強健で、よく乳を飲む子であった。
四、五歳
のときは他の七、八歳の子供のようであった。
六、七歳
のころには武芸を好んだ。遊びで他の子供を倒すにも非常に軽捷で、成長するに従い、ますます聡明で賢く、弁舌に勝れるようになった。
八歳
のとき、供の者数名と「見せ物」見物に出かけた。その最中、群集のなかで論争が起こり、死傷者も出て大騒ぎとなった。群集は逃げまどい、四散した。供の者も宗茂を連れてその場を立ち去ろうとした。すると宗茂は少しも恐れずに「今日の見せ物はこれで終ったのか」と訊ねた。供の者が「ただ今、恐ろしい騒ぎが起きましたので、このような所におられるのは危険でございます」と言うと、宗茂は笑って「お前たちが慌てるとはおかしなことだ。我々は、あの論争の相手ではないのだから、どうしてこちらに切りかかって来るようなことがあろうか。見せ物がまだ終ってないのに、どうして立ち去る必要があるのか」と全く動顚した様子がない。そのうちに騒ぎも静まり、四散した人々もまた戻ってきて見物しはじめた。
十歳
のとき、父・鎮種は家中で重罪を犯した者を、家臣の萩尾大学に命じて討たせた。萩尾はその者と街で行き逢ったとき、すれ違いざまに後から一太刀で切り伏せた。このことを家中の傍輩たちが「後から切るのはたやすい、手柄とは言い難い」などと囁きあっているのを、宗茂が聞きつけて、「突然行き逢ったのであれば、前後を問わず、その場で討ち止めてこそ手柄だ。敵を討つのに容易なところを避けて、討ちにくい方法で切りかかって、仕損じたら何とする。お前たちのような者は、私が成長した後には、軍利の邪魔になるであろう」と言ったので、人々はみな恥じ入って感服した。
十一歳
のとき、宗茂は戸次道雪の立花城に行った。道雪は千熊丸(宗茂)を饗応し、血気の壮者を呼び寄せ、弓を射させて見せた。そして戯れに「そちはまだ幼いので、弓はうまく射れまい」と言った。すると、宗茂は道雪の背後の床の上にある剛弓を借りて射た。四発のうち三本までが当った。
十二歳
のとき、鷹を手に据えて、同じ年頃の子供を引き連れ、野外で遊んでいたところ、そこに猛犬が急に吠え掛かってきた。宗茂は少しも恐れず、刀を抜き飛び違いざまに嶺打ちで強く打った。犬は恐れてそのまま逃げ去った。父・鎮種がこれを聞いて「刀を抜いて防ぐくらいなら、なぜその犬を切り止めなかったのだ」と訊ねると、宗茂は笑って「太刀というものは敵を切るものと承っております」と言ったので、鎮種は嬉し涙を流し「我が子ながら器量雄才ともに抜群だ。しかし成長して後、自分の才能を誇るようなことをしてはならぬ」と諭した。
十三歳
のとき、父・鎮種が出陣することがあり。そのとき戯れに「お前も出陣せよ」と言うと、宗茂は畏まって「お言葉がなくとも、お供したいと思っておりましたが、私はまだ強健ではありません。このまま敵に出会えば、不甲斐ない死をとげるでありましょう。あと一、二年もたてば、一方の大将として、ぜひとも出陣したいと存じます」と言った。これを聞いた人は、その思慮深さに感心した。
ある日、道雪のところに遊びに行ったとき。道雪は家臣に命じて、罪人を書院の庭で一対一で放し討ちさせた。激しい斬り合いの後、罪人は討たれてしまった。宗茂と共にそれを見ていた道雪は、不意のことで、宗茂がどのように感じたかと思い、試しに宗茂の胸に手を入れてみると、少しも激しい動悸がない。これによって道雪は、宗茂に豪傑の資質を察し、後に鎮種に請うて自分の嗣子(一人娘、誾千代の婿)とする。
道雪には男子がなかった。鎮種の嫡男・宗茂を養子にしようと思い、鎮種に乞うた。しかし鎮種は承知しない。重ねて乞うて言うには「自分は既に七十有余歳に達した、国の衰運であろうか、賊徒は負けても、勢いは再び日に日に盛んになり、それに引き換え、味方は勝っても、勢いは日に日に衰える有様。近くは島津・竜造寺、遠くは毛利の大敵を、自分の死後は、誰がそなたと心を合わせて、大友家を助けるのか。はなはだ心許ない限りである。そこで宗茂に戸次(立花)の家を相続させ、自分の死後も、そなたと心を合わせて国を守らせようと存ずる。これは一家の安泰のために思うのではない。すべて国のために思うのである」と。鎮種はその意気の慷慨たるに感動して、ついに最愛の嫡子を道雪に与えた。鎮種は、宗茂と別れの盃を交わした後、改まって「この後は、わしを親と思ってはならぬ。今日の武士の習いとて明日にもそちの養父・道雪殿と敵味方になろうものなら、そちは道雪殿の先鋒となり、必ずわしを討ち取るがよい。道雪という御仁は、つねに未練なふるまいを嫌われる。そちがわしを前に自ずと不覚などあり、道雪殿より義絶されるようなことにでもなれば、おめおめとこの岩屋城に戻ってはならぬ、潔く直ちに自害せよ」と言って、手ずから一剣を与えた。宗茂は、終生この剣を肌身から離さなかった。 後に宗茂は九歳のころ、道雪と一緒に飯を食った折、鮎をむしって食ったところが、『武士の作法を知らぬ。女のようなやり方では役に立たぬ』とひどく叱られたことがあった。また道雪と同道して山道を通ったとき、栗の毛毬が足にささった。『これを抜いてくれ』というと、由布雪下が走り寄ってきて、抜くどころか、逆に押し込んでしまった。」と立花の家風を語った。
道雪と鎮種は反大友勢力を討つため出陣し、嘉穂八木山の石坂で秋月勢を迎え討った。初陣の宗茂は後見役の有馬伊賀以下百五十の兵を指揮し、秋月の勇将・堀江備前を討ち取った。号令を伝達し、士卒を指揮する姿は才勇絶倫で、すでに良将の風があった。
十六歳のとき、筑前岩戸郷に反大友勢力が集結した。道雪は宗茂に五百の兵を与え、自らは千の兵を率いて出陣した。道雪の危機を的確な状況判断と絶妙の奇襲で逆転して勝利に貢献した。七十歳を超えた戦の名人道雪も「統虎(宗茂)は天性の質を備えており、将来みごとな武将となるであろう。長生きしてその姿を見たいものだ」と絶賛した・・・。

 


電 子 書 籍

兵書抜粋

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兵書抜粋

兵書の普遍と真理

兵書には兵法すなわち兵学と兵術が書かれてある。兵学とは戦いの理論と哲学で、兵術とは兵学を実行する術策であり、文字に表現しつくせないものが多分にある。兵法の要は、集団を率いて戦勝を獲得することにあり、「戦わずして勝つ」ことをもって最上とする。戦って勝つための鍵は、我が優勢をもって敵の劣勢を討つにあるが、この優勢はたんに有形の要素だけでなく、無形の要素によってきまることが多い。たとえば不意を突かれた軍はつねに劣勢である。無形の要素は、生命の危険を前提とする戦いの場面において、想像を絶する大威力を発揮するもので、有形の要素の格段の差が有無を言わせぬ猛威をふるうのも、それが人間に絶望感を与えるためでもある。兵法は、本来、性悪説によっている。性善説で粉飾しているものもあるが、これは無理である。とくに統率のためには、将兵の忠誠心や勇敢さが貴重であり、それを養うことに努力しなければならないが、極限状態に陥った人間は、その良識が管制力を失って本能をむき出しにすることを認識し、手抜かりのないように考えておく必要があり、現に信賞必罰を説かない兵書はないのである。性善説を表看板とする日本軍の統帥綱領や作戦要務令も、武士道や軍人精神の修養練磨という事前の準備を強く要請するとともに、厳正なる軍紀(積極的責務遂行心)の必要を高唱し、峻烈なる軍律によって裏づけしている。兵法は時代とともに進化していくものであるが、そのなかに不動の部分がある。それは真理と人間の本質に根を下ろしたもので、百年千年の風雪に堪えて来ており、今後もますます輝き続けていくであろう。本書に抜粋集録したものはこれである。なお、兵書は、時世に恵まれた一人の天才が、多くの人の経験を集めて単純化し、ある主張のもとに編集したもので、たとえば孫子の兵法も、そのすべてを孫武が開発したものではなく、いわば彼は編者である。したがって協力者の参画があったろうし、テクニックに属するものには、伝承者の手による後世の修正加除もありうるわけである。兵法は、たんに戦いの場だけでなく、政治の運営、企業の経営はもちろん、我々が人生を生きがいのあるものにするためにも、そのまま役に立つ。政治も企業も戦いも、要は組織の効果的な運用であり、また、人生は苦難の連続で、我々はこれに打ち勝たねば生きていけないし、打ち勝つことによって、初めて真の喜びを感ずるものだからである。-- 大橋先生著「兵書抜粋」まえがきより --


闘戦経

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闘戦経

「闘戦経」を世に出すようになった経緯

「闘戦経」は幸いにして先覚の士により、明治にいたってその存在が確められ、海軍兵学校の手に移るにおよんで、昭和九年に木版刷にされたものが若干篤学の士に渡り、さらにその活字化されたものの一本が偶然私(大橋)の所へ来たのである。それは私が東部軍参謀時代の参謀長高島辰彦氏の好意で、戦後「兵法的思考による経営」を研究している私のことを聞かれ、昭和三十七年十月二日に氏秘蔵の一本を下さったのである。氏を中心とするグループはかねてからこの本を研究しておられたようで、篤学の士の訳までついていた。それから十八年後の昭和五十五年十月から、はからずも私はブレーン・ダイナミックス社の前田滋社長の後援により、帝国ホテルと丸の内ホテルで兵法経営塾を開講しているが、熱心な方々が全国から集まられ、ついに昭和五十七年には三年研修生が出ることになった。その結果、今までより高度の兵法研究を行なうことになり、その対象として、中国の「鬼谷子」と日本の「闘戦経」が浮かびあがってきた。いずれも古代の幻の兵書であり、難解である。しかし私は数年前からこの両書を研究していたので、この際これをまとめて本にして教材に使いたいと思い、「鬼谷子」は徳間書店の厚意にあまえて刊行することにし、「闘戦経」は、紙数が少なくて刊行対象にならないため、自費出版をすることに踏み切った次第である。なお大江匡房の文章は現代人にわかりやすいように書き直し、さらに解説と私の考えを付記しておいた。古人の序文に「将来、天機秀発して、後世、しかるべき人に知られるのを待つのみ」とあるが、この八百余年も前の人の悲願が今達成の機を得ることになるかと思えばまことに感慨無量であり、また筆をとる者としてまことに冥利につきる思いがする。なお、私は暗号解読も同様の苦心をして勉強したが、まだまだ不十分なところが多く、結局、私の仕事は「こんな本がある」ということを世の中に紹介するにとどまったようである。私もまた先人の例にならい、将来いつか達識の士が現れて、この本の主張するところをさらに効果的に活用する途を聞かれんことを期待する。なお、あとがきにある大江元綱の言のように、この本は「熟読永久にして、自然に関を脱するを得べし」であり、わからないところはじーっと睨み、繰り返し読みつづけていれば、日本人であるかぎり、いつとはなしにその意味が脳裡に浮かんでくるものであり、読者の不屈の挑戦を念願する次第である。-- 大橋先生著「闘戦経」を考えるより --


大橋先生・武岡先生 著書
大橋武夫先生の書籍 武岡淳彦先生の書籍
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電子書籍

「兵法 小澤様問対」

兵法塾外伝・平成 令和

小澤様 !
ありがとうございます。
電子書籍として上・中・下
公開させていただきます。

電子書籍 2024.01.16

「兵法 小澤様問対」
「兵法小澤様問対」上 「兵法小澤様問対」中 「兵法小澤様問対」下
兵法小澤様問対上 兵法小澤様問対中 兵法小澤様問対下

「兵法 小澤様問対」上・中・下
(兵法塾外伝 平成・令和)

2009年の3月14日に初めて「小澤様」からの掲示板への書き込みがあり、その都度、拙いご返事をお返ししてきましたが、いつの間にか14年も経過して、世相も時代も大きく変化してしまいました。その時勢に応じた大橋武夫先生、武岡淳彦先生の著書やエピソード及び古典、ビジネス書をテーマにした「小澤様」との掲示板での対話が日々研鑽の証となり、個人的にも人生の貴重な足跡となりました。2013年頃より大橋先生の「お形見の書籍」を電子書籍として作成させて頂いていましたが、この度、「兵法塾・掲示板」での「小澤様」との兵法に関するやり取りを、保存と編集をかねて電子書籍として公開させていただきます。引き続き、ご指導ご鞭撻を賜れば幸甚でございます。
■ 兵法 小澤様問対 上 【9】~【59】2009(平成21)年3月14日~2010(平成22)年6月26日
■ 兵法 小澤様問対 中 【60】~【115】2010(平成22)年7月28日~2013(平成25)年2月17日
■ 兵法 小澤様問対 下 【116】~【178】2013(平成25)年3月3日~2023(令和5)年1月5日

2023年12月
heihou.com 
(ヘイホウドットコム)編集・著者

 


 

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