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Military Art from T.Ohashi T.Takeoka

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主宰者コメント

〇「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず。然らば聖人の意は、其れ見るべからざるか。」-- 易経・繋辞上 --
〇「積年の鍛錬自得の心法も、既に古人の書にあり、自らの任にあらず。」-- 明治の天才剣客・内藤高治 --
〇「汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を禱らん者か」-- 日蓮大聖人・立正安国論 --
〇「聖人まさに動かんとすれば、必ず愚色あり」-- 六韜(武韜) --
〇「此の時、声無きは声有るに勝る」-- 白居易 --
〇「されば我が弟子等、心みに法華経のごとく身命もをしまず修行して、此の度仏法を心みよ。・・」-- 撰時抄 --

 


大橋武夫先生・武岡淳彦先生

昭和57年(1982)の4月頃だったと思う、その頃大橋先生の「図解兵法」「続名将の演出」「兵法孫子」などを既に読んでいたが新刊の「立身出世のすすめ」の中に大橋先生の主宰される「兵法経営塾」のことが書かれていた。兵法経営塾はがき当時はやっと社会人となって一年くらいたっていた。コンピューター関係の会社であったが当時は東京本社で随意契約で受注した国の行政機関の仕事を人件費の安い地方で処理して航空便で納品していた。そのうち競争入札が加わり売上の半分も占めていた随意契約が三分の一に減り、地方の営業所の人件費を分散(減らす)することになり数名の転勤が決まっていた。既に「孫子」を諳んじ、「史記」を読み、韓信・張良・陳平・蕭何を知っていたが残念ながら先ず役に立ったのは彼らの人間関係に対する身の処し方であった、組織というものは斯くもたやすく人の運命を軽く扱うものかと憤った。その日仕事が終って事務所にひとり残っていたとき著書の後に書いてあった大橋先生のご自宅に電話をしたら大橋先生が出られた。「あのー、先生の兵法経営塾は私みたいな一般の者も参加できますか?。」と尋ねたら、先生は喜ばれて「どちらからですか?〇〇ですか、〇〇なら□を作っているところの社長さんが私の本のファンですよ」と言われ、「兵法経営塾の事務局(企業研修会社)から連絡させましょうか?」と言われたが、あまりの突然のことで恐縮して、後でこちらから連絡させて頂きますと言って、事務局の連絡先を教えて頂いた。パンフレットその後、転勤先の事務所で兵法経営塾の資料を手にした。年12回で入会金・年会費合計約40万円。既に数ヶ月分が終っており、今年残りの分を払込んで早速上京した。就学旅行以来二回目の東京は丸の内のホテルの兵法経営塾セミナー会場であった。初めて大橋先生にお会いして挨拶をした、先生は既に70歳は過ぎておられたが大変懇切で無駄な言葉が無く真剣で自信と確信に充ちておられたと思う。私より背が高く、野太い声で、やはり明治生まれの軍人だと感じた。セミナーの参考書・兵書抜粋にサインをされながら、「遠い所をよくおいでましたね、兵法のことはまだ他の人は誰も知らないんだからね。」と話された。グループごとの丸いテーブルの椅子に座って見渡すと、泣きたくなった、二十数名ほどの中で恐らく二十代はおろか三十代の人も居られなかったと思う、傍らの人に名刺を渡し挨拶すると皆、代表取締役〇〇という名刺が返って来た。当然である、ここは経営塾なのである。社名こそ今はやりのコンピューターではあるが営業部以外の何の肩書きのない平社員がとんでも無いところに来てしまったと思った。それも平日に休暇を代え、まだ自分の会社の東京本社にも来たことのないい田舎っぺである。もちろん会社に許可など取れるはずもなく、その後も毎月給料の半分以上を費やして「金蝉脱殻の計」は三年間ほど続くのである。当時は、よく「」を立てたが正に「天沢履(てんたくり)」(虎の尾を踏むような危ない状況)で虎穴を行ったり来たりした。その内懇意にしていただく社長さんや事務局の方々に気をよくしてセミナーに集中した、何しろ兵法を教えてもらえる先生も学校も他には無いのであるから。昼間は営業兼、納品係りで福岡の街をぐるぐる回っているが、その日の夕方は〇〇の夜景から羽田の夜景に変わるのである。・・・武岡先生が亡くなられた後、先生の告別式以来、久しぶりに上京した折、先生ご自宅のご仏前にお参りさせて頂いた。その後友人の結婚式 に参加しての帰り、久しぶりに夜の羽田を見た 。・・・この頃のことを思い出して目頭が熱くなった。「ゆくたびか、鉄(かね)の翼にうち乗りて、都の九天、尚追い止まぬ」であった、誰にも言えず、誰にも知られず、独り歩く東京の街は今となっては絵物語の如くである。セミナーの会場になった帝国ホテルや紀尾井町のニューオータニ周辺は都の歴史物語の舞台でもある。よくセミナー終了後、皇居前の大楠公の下のベンチで今日の講義の戦史を読み返し、幼い多門丸が夜の葛城山を越える姿を思い、熱くなって思わず大楠公を見上た。大楠公 羽田までの帰りの途中で五反田駅からまだ行った事のない本社ビルを眺める度に東京の陽の傾きの早さを感じた・・・。初めてのセミナーで大橋先生が、講義の終わりに質問を促された。錚々たる社長さん達の前ではあったが、敬愛する念願の兵法の先生に教示を賜る機会に気負い込み、緊張したまま質問の挙手をした。兵書抜粋闘戦経「孫子に上下、欲を同じくする者は勝つとあります、私は会社では上下の下の人間ですが、先生の言われる兵法経営の会社ではどのようになりますか。」緊張した九州訛りの質問に、大橋先生は丁寧に具体的に労使の賃金体系などの話をされたと思う。その時の内容は舞上っていてはっきり覚えていない・・・。ただ自分の立場と、ここに居られる人達とは立場が異なり、下の人間として上に不信、憤りを感じていることは先生も察せられたと思う。大橋先生の横の席で副塾長の武岡先生は、久しぶりに聞く九州訛りの若者を笑って見ておられた。26年前の光景ではあるが、その時の大橋先生の御姿と武岡先生の笑顔が今もはっきりと蘇るのである。・・・時の風に舞い上がった紙くずの様な小さな「」ではあったが、二十代のサラリーマン社員では決して見ることの出来ないものを見せて頂き。身分不相応な大変な恩恵を大橋・武岡、両先生より賜った。大橋先生は、セミナーの折でも、「旧軍でも防衛庁でも本当に「戦略・戦術」を自分の言葉で語れるものは彼(武岡先生)を措いて他にいない」と話され、兵法経営塾・兵法経営研究会の指導を徐々に武岡先生に託されて行った。兵法経営研究会兵法経営塾は昭和59年の9月まで参加させて頂いた。その後、兵法経営塾のOBで発足された「兵法経営研究会」にも引き続き参加させて頂いて、色々な御支援を頂いた。昭和62年7月、既にもとの〇〇営業所に戻っていたが、突然、兵法経営研究会の事務局のNさんより大橋先生の訃報があり、17日に上京して告別式に参列させて頂いた、その後、御遺族と一緒に、武岡先生はじめ兵法経営研究会の数名の方々と先生の御骨を揚げさせて頂いた。浅学非才で不遜な世間知らずであったが、皆さんと一緒に先生のお側に置いて頂いたことを心より感謝し、人生最大の誇りに思う。数年後、上京して武岡先生の書斎 にお伺いした折、机上に大橋先生の小さな「御遺影」があり、小さな「お水」がお供えしてあった。・・つい先日の出来事のようにも感じるが、武岡先生は大橋先生のご遺志を受けて兵法経営塾・兵法経営研究会・京都兵法会をはじめ全国に勉強会を主宰され、武岡戦略研究所を立ち上げられた後、平成七年、「国際孫子クラブ」を創始された。追悼集国際孫子クラブ 第一回の国際孫子クラブの全国大会が平成九年、秋の京都で開催され、大橋先生の兵法経営塾をはじめ、縁の方々が一同に会した。五歳の長男と一緒に参加させて頂き「感無量」であった。その後の第二回目の全国大会を準備して頂いている途中で突然、武岡先生は逝ってしまわれた。その一月ほど前(1999年12月)に上京して先生にお会いしたが、帰り際に玄関で先生が手を差し伸べられた。両手に押戴いて額に当てたが、その時の先生の手の温かさを一生忘れることはできない。18歳の落第生が、三島彦介先生の授業で「孫子」を知り、天野博士の「孫子」を手にして33年、大橋先生・武岡先生に初めてお会いしてから26年、まさに一冊320円の本が人生を変え、今日を導いたと思う。その間、出会った沢山の方々に心より感謝し、朝夕の回向と共に、皆様のご多幸をお祈りして行きたい。「乃至法界平等利益自他倶安同歸寂光」・・・。


それからの「兵法」

それから20年、当時五歳だった長男と一緒に赤門の前で記念写真を撮ろうとしたら「この前まで馬鹿にしていたくせに・・」と窘められてしまった。小学校低学年の頃、学校で友達とケンカをして先生から咎められたらしく家に帰ってからも「ぼくはしゅしゅこうじゅだもん」 「ぼくはしゅしゅこうじゅだもん」と何やら子供ながらに悔やみながら主張していた。当時は親にも何のことか理解出来なかった。おそらく先生にも理解してもらえなかったことに幼心を高ぶらせていたのだろう。既に二年生の頃には幼稚園や学校の先生以外にも「先生」がおられた。高校入試前に少拳士二段で一旦、小の兵法を止めたがその後も大の兵法で自ら転がり出したのかも知れない。父子で何度も大橋家、武岡家のご遺族にもご挨拶させていただき先生のお形見をはじめ数え切れないほどのご厚情を賜った。父子揃って大橋先生、武岡先生のお墓参りをさせて頂き「感無量」で言葉が無い・・・。馬手「兵書抜粋」弓手「方面隊運用序説」に恥じない生き様を改めて誓わずにはおれない。


戦 理

「戦理」とは、宇宙、大自然の目から見た生命の実相の一部を顕したものと考えられる。人間は、まず自然界の動物・植物の生き様と一緒にそれらを身に着けた。やがて、人間同士の争いが大きくなり軍事としての法則を見出そうとした。戦史などから帰納的に導き出されたそれらの原則ではあるが、本来は人間が生き抜くために自然から学んだ「智恵」である。災害、事故、感染症など大自然の力に対処する時や戦争という人類共通の敵を消滅させるためにも大きな勇気をもたらすと確信する。人類は、あまりにも愚かな手段である軍事を過大に扱いすぎる、今や人類にとって軍事では解決できない問題のほうが大きい。地球温暖化や新型インフルエンザを戦車やミサイルでどう防ぐのか。軍事は所詮、人間の問題である、武力、暴力、武器からは何も生み出さないのはもちろん、軍事からもたらされるものは悲惨と後悔だけである。軍事的効果に期待した戦略発想はことごとく誤りである。すべての価値の源は「命」である。「兵を用うるの害を知らざる者、すなわち兵を用うるの利を知る能はざるなり」(孫子


孫武の思想

「境内の民みな治を言い、商・管の法を蔵する者、家ごとに、これあれども国いよいよ貧し。耕を言う者衆く、耒(スキ)を執る者寡ければなり。境内みな兵を言い、孫・呉の書を蔵する者、家ごとにこれあれども兵いよいよ弱し。戦いを言う者多く、甲を被る者少ければなり。」(韓非子)-----韓非子の時代(前280~前233年)、秦・始皇帝の頃から「孫子兵法」はそれなりの家ならどこででも手にすることが出来たと考えられる。庶民の韓信でさえその気になれば「之を死地に、陥れて、然る後に生く。(九地篇)」くらい諳んじていた。前213年、韓非子の思想により始皇帝は、医薬、朴筮、種樹、以外の書を焚いた。その後不老長寿も空しく始皇帝は沙丘で没、(前210年)、劉邦が項羽を破り漢王朝を興した(前202年)。その後、漢武帝初年(前141~前118年)頃の造営と思われる貴族の墳墓より1972年に掘り起こされた竹の簡をもとに現代の中国の研究者により刊行されものが所謂、「竹簡孫子」である。孫武(前512頃呉の将軍)から「竹簡孫子」が副葬品として埋められるまで、約370年、それが堀起こされるまであと約2113年、気の遠くなるような時間である。2002年の中国紙、文匯報によると湖南省西部の竜山県で、春秋戦国~漢代とみられる城郭跡から秦代の竹簡、約二万枚余りが発見されたという。2007年、世界中に翻訳されているART OF WAR SUN-TZU とその解説書が様々な媒体として未来に残って行くことであろう。同様にその中の一冊が未来に発掘されたとして、どれだけ「孫武の孫子」に近づくことができると言えるだろうか、科学技術と学術研究には大いに期待するが、それまで人類は戦争という宿業を克服できないというのか。銀雀山出土の「竹簡孫子」は文化的、学術的には大変貴重なものかもしれない、しかし所詮今日の孫子が21世紀にも、もてはやされているのと同じく、どこの書店、どこの家にでも一冊や二冊はあるであろう孫子・呉子の一冊と同じかもしれない。


兵法は詭道ではない

孫子の始計で有名な言葉で「兵は詭道なり」とあるが、始計の本来の思想と「詭」の思想、理念は全く異なる。孫子(兵法)を騙す事と思い込んで、やたら偽り、虚偽に奔り、本来の「」を失って墓穴を掘って自滅する事例は21世紀の今日に至っても尽きない。ことに兵法を軍事以外の経営や処世に活用することを吹聴する者の中には、やたら欺瞞に埋没して「兵法」「戦略」の名聞のみを誇示して無責任に終始している者も少なくない。「正奇」「虚実」の理を理解した者でなければ「詭」を運用することは不可能である。所詮、「詭」も「奇」も虚実を生み出すための方便に過ぎず、太極の虚実を捉えきれないものは「詭」の生み出す「虚」を自らの「実」で撃つことはできない。「実」を充たした者が「虚」を装うことはあっても、自らの虚を「実」に装うが如きは本来の兵法ではない。真実の「」を覚らぬ者は戦いの利を収めることもできない。現伝承の「孫子」の五事、七計の理念に「詭」はどのように反映されると言うのか。魏の武帝・曹操の時代に既に孫武の兵法は錯簡しており、奸雄・曹操が自らの功績、生き様を「詭道」の文字を用いて誇示、正当化したにすぎない。魏武・曹操の実力、功績を否定することはできないが、今日、曹操が注釈したものが最古の孫武の兵書であるとして、曹操を孫武の兵法の最高の具現者とすることはできない。当然、ただ曹操より古いというだけで衆寡と攻守の理念を錯乱した「銀スズメ竹簡」の言うことなどを聞いていたらとんでもないことになる。「孫子の兵法」は偽り欺くことと訳した世界中の数千年来の孫先生のグレートブックは何なのか? 21世紀・平成20年の今日、やたら「偽り」「装う」世の中で、馬脚を現す兵法経営・経営戦略の多いことか。かつて大橋先生・武岡先生の門下でその権威を借りた一部の奸雄達の中で、なるほど木の葉を黄金に変えて見せた方々も少なくないが、尻尾を濡らし、兵法の名を汚し恩を仇と変え、ご遺族、同門、同志を辱め、心配をかけた人もおられるのではなかろうか。もちろん事業に浮き沈みはあり、人生にも栄枯盛衰、順と逆があるとは思うが、負け戦の後に「詭道・偽り」を暴かれるが如き「兵法経営」は大橋先生、武岡先生の兵法には微塵も存在しない。むしろ、「君主論」などの極端に聞こえる言葉を中々受入れ難い「薬」のようにして慎重に学ばれ、従業員と一緒にに試行錯誤して波乱を乗り切っておられる社長さんたちは、決して「太極の利」を失われることなく、その名は秘かではあるが、その道は高く徳は後世に讃えられるはずである。孫子の始計篇、「兵は國の大事、死生の地、存亡の道なり。」と「兵は詭道なり」の思想は次元の違うテーマであり、「兵は詭道なり」は孫子の兵法思想を貫くものではない。このことは既に天野鎮雄博士の孫子研究で主張されている。魏武帝・曹操以来、二千年の風雪を耐えた現伝承の「孫子」ではあるが、残念ながら錯簡・衍文・衍字のままでは孫武の本来の思想を捉えることは難しい。まして「詭道」を用いて経済活動、商いの道を照らすが如き処世は「孫子」そのものを貶め冒瀆することに他ならない。----大橋先生は、「兵書には「」という言葉がよく出て来る。これを「経営」に利用される方は、この「敵」を商売仇や競争相手と置き換えられることが多い。しかしこれでは兵書の一番よいところを逃がしてしまう恐れがある。どうか「」とは「困難な仕事」と、思って頂きたい」と戒められている。しかし今日の孫子は「顧客」までも「」とみなし、平気で「」を施してしまうような風潮になっているのではなかろうか。かつて周に滅ぼされた殷(商)の民は土地(農)を失い、生きる伝として「物」を仕入れて売る(商い)を生業とした、故にある所で楯を売り、ある所では矛を売らねばならない、やがて矛盾という「嘘」をつかざるを得なくなる、やがて商の民の「嘘」は罪を問われなくなり、「嘘」「偽り」は商いにおいては大切な術となってしまったという。「生きる」という「業」はそのようなものかもしれない。さればこそ商いの世界においては得がたい「」がことさら尊ばれるのかも知れない。


兵法の極意

兵法の極意!と言うと思わず身を乗り出される人もおられるかと思う。西江水・太阿の剣・一の太刀・巌の身など剣術の奥義の名前を聞かれた方も多いかと思う。はて、21世紀の書店の棚には30分で分る孫子、一時間で分る兵法、云々というタイトルの書籍も賑わせている。唐突であるが仏法・大蔵経七千巻の奥義は久遠実成の法華経にあり法華経の奥義は本門の題目「南無妙法蓮華経」である。などと書いても、何の事か? うそー !そんなの関係ねー!と思われるはず。これが奥義・極意・真実・実相だと言われると誰も信じない、疑念を抱くものが本当の奥義かも知れない。所詮、聞いても見ても分らぬものを何かありがたい物をもらえると思うとついつい手もお足も出してしまうのが凡人でありしかたない。聖人の意は、それ見るべからず・夫子の道は忠恕のみである。凡人・奇人の自己満足の言葉をお許し願いたい。なんだそんな事か、と言って霊鷲山を去っていく人に罪は無く、日頃は問われて山水の蒙を取り去るのに、勝手にいきなり話出した方の罪を問われても責任は負いかねる。朱子は「易」の地山謙の「謙」は兵法の極意という。大橋先生は、「情理を尽くした統御・的確な指揮と、かつ教えかつ戦う人間育成による組織力の効果的な発揮である」と言われている。武岡先生は「正奇の運用と止揚効果にある」と言われた。自分は「正と奇による虚実の主動的な創造にある」と思う。天野鎮雄博士は「史記の孫子列伝で呉王闔盧の前で女官を調練する有名な説話は後世の作為であり孫武の真の人物像を表明していない」「君命も受けざる所あり」(軍争篇)は将軍の独断専行を強調するものではなく人命の尊重と国家の安泰を至上の利として全体の利害を勘案した状況判断の結果である。また孫子の本来の文には、ことさら賞罰を厳にする思想はない、演習の指揮の結果に実害はなくその責任を隊長に帰して斬罪にすることは賞罰のみを厳にして人命を軽んじるものであり孫武の思想に副うものではない。故に既に司馬遷の時代このような説話を採用されるほど、孫武の十三篇は既に錯乱し、様々な衍文が付加されていることを推察させるものである。」と言われる。兵法の極意が「教育」にあるとすればこの説話も全く否定はできないとも思う。孫子の思想は「理」を説くものであるが、高度の「感性」が無ければ心に響かないものである。世の中は「何を言うか」ではなく「誰が言うのか」で動くものである、故に権威の無い「兵法」は世に受容れ難い、しかしその言葉は無責任な妄語であってはならない。



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電子書籍

「兵法 小澤様問対」

兵法塾外伝・平成 令和

小澤様 !
ありがとうございます。
電子書籍として上・中・下
公開させていただきます。

「兵法小澤様問対」上

兵法小澤様問対上

「兵法小澤様問対」中

兵法小澤様問対中

「兵法小澤様問対」下

兵法小澤様問対下

電子書籍 2024.01.16

⇩ リンク

「兵法小澤様問対」上

「兵法小澤様問対」中

「兵法小澤様問対」下


「兵法 小澤様問対」下巻 あとがき より

あとがき(下)この「兵法小澤様問対」と名付けた【9】~【178】までの掲示板・対話の時代背景は2009年から2023年まで約14年間の平成の後半から令和の初頭までの大きな時代の変化の中での「兵法談義」です。小澤様とは、ほとんど同世代ですが、この期間は失われた30年とも云われた時代の後半にあたります。21世紀の今、気候変動、自然災害、パンデミック、貧困、戦争・・。これでもか、これでもかと人類は歴史的な試練にさらされています。今、日本も存亡の岐路かもしれません。国民は疲弊しきっています。戦後の復興世代の我々が見て来たものを振り返れば「兆し」は既に現れています。その兆しの下に潜んでいる巨大なものが、未来の可能性です。第二次世界大戦は人類8500万人の犠牲者を出したと云われます。日本は広島・長崎に原爆を受け310万人の犠牲を出して無条件降伏しました。我々にとっては父母、祖父母の経験であり、学校の授業でも学年末の近代史は記憶に薄いままです。なぜあれほど愚かな戦争を引き起して悲惨な結果で終ってしまったのだろうか・・。と思って多少学んでみると当時の政治家や軍人に強い憤りを感じてしまいます。ならば、今の日本はどうだろうか・・。今の日本の「失敗の本質」は2004年(平成16年)の「製造業への人材派遣解禁」にあると思った。元々禁止されていた「労働者の供給」がグレーゾーンから徐々に解禁されて行って、ついに2023年には労働組合ではなく自民党や経済団体から賃上げの声を聞くようになってしまった・・。もう水も喉を通らないくらい、弱りきった馬車馬には立ち上がる力は残っていない・・。戦前の一夕会のエリート将校でも自分たちの政策に多少の不安を感じていたはずである。令和の二世三世の政治家や経済界の、雇われ社長たちも、この「平成の大失敗」の本質を内心では悔やみ畏れているはずである・・。資本主義の根幹は「簿記の思想」である。ガレー船の中で死んだ奴隷の数は資産の減少であり。リンカーンは合衆国憲法で保障された個人資産の解放に躊躇した。牧場を放たれた家畜はそのまま草原で暮らす者と、再び牧場に戻って来て「賃労働」で暮らす者があった、賃労働は餌(えさ)や肥料と同じ「費用勘定」である。牧場の収益は少ない費用(賃金)でもたらされる。常に自然災害、金融不安、市場競争にさらされる企業(牧場)は、操業や実績に応じて変動が可能な「費用」を欲しがる。受入企業の都合で、いつでも契約を切れる派遣会社からの賃労働の供給(雇用の調整)が、人材派遣である。2020年時点で非正規労働者の割合は38%を超えた。低賃金、不安定雇用の世代が家庭を持って子供を育んでいくことなど不可能に近い・・。その結果、人口減少、少子高齢化、労働力不足に陥り、技能実習などと偽って更に安い労働力を国外に求めたが、借金と低金利の「円安」で、外国人労働者からも見放された。今の日本の醜態は恥も外聞もない・・。巨万の「内部留保」を抱えていても国際競争力を失い、同盟国からの圧力や規制緩和や国際イベントの陰には常に、利権と癒着が見え隠れする時代でもある。世界に目を向ければ、国民を偽り他国に侵逼して、戦場に人を殺させる、さらに殺された自国の民の言葉を封じる・・。人類の歴史でも稀な国際情勢である。「新しい資本主義」と云う、同世代の総理の言葉に「労働分配率」でも決めてくれるのかと、多少期待したが、「所得(給与)倍増」は「資産(株や投資預金)倍増」にすり替わり、金融資産課税も消えた・・。昨日までの政府のコロナ対応を見れば、いくら防衛予算を倍増しても手作り散弾銃二発で終わりとなる。挙国一致などという言葉は使いたくないが、先日、恩師の「陸軍認識票」をお形見として賜った。恩師は幾多の戦火を越えて復員されたが、「みずく、くさむす」数百万の「認識票」と、戻ってきた「白木の箱」を思えば・・涙は襟をうるおし、頤(おとがい)に交わる・・。「何があっても絶対に国民に人殺しをさせてはいけない。」恩師の著書に「家畜の賃金」という言葉があった。「家畜の賃金と私がいうのは、労働者が生きるに必要な賃金は、会社の事情いかんにかかわらず、必ずくれというからである。家畜は生きるに必要なものはもらうが、それ以上はもらえない。飼い主は生かしていく力がなくなれば売るか、殺してしまう。家畜賃金制では、経営者は労働者が生きていくに必要な賃金を払えなくなれば、解雇するであろうし、利益が上がっても分けあおうとはしないだろう・・1962年著「兵法で経営する」大企業ではなかったが、既に61年前に労働分配率を決めて経営されていた。掲示板には、小澤様以外にも大変貴重な励ましのお言葉を賜っていました。今回は割愛させていただきましたが、改めて心よりお礼申し上げます。拙い独断の「あとがき」となりましたが、貴重なお時間と心血を注いでいただいたうえに、電子書籍での公開を快くご了解を賜りました小澤様に感謝申し上げます。大橋先生、武岡先生にも必ずご報告をさせていただきます。最期まで目を通していただきました皆様のご高読を心より感謝申し上げます。

2023年12月
heihou.com (ヘイホウドットコム)編集・著者


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