戦争論・解説
「戦争論(1832年)」はプロイセン(ドイツ)の参謀将校クラウゼウィッツ(1780~1831年)の著書である。クラウゼウィッツは二十一歳でベルリンの士官学校に入り、校長シャルンホルスト(後の参謀総長、元帥)の薫陶を受けた。当時のプロイセンはナポレオンの侵略を受けて、苦難のどん底にあった。1806年のイエナの会戦で完敗・壊滅して国王夫妻も臣従を強いられ、モスクワ遠征に全軍をあげて駆り出されるような状態だった。クラウゼウィッツも皇太子と一緒に捕らえられ約二年間フランスで俘虜生活を送った。解放され帰国して後に宮廷に招かれ皇太子に兵学を講じた。「戦争論」の著述を思い立ったのはこの頃と云われる。ナポレオンのモスクワ遠征時にはナポレオンの下で戦うを潔しとせず国を去ってロシア軍参謀本部に投じてナポレオンの敗戦を注視した。1813年、プロイセンのブリュッヘル軍参謀長となっていたシャルンホルストのもとに帰り、ひきつづき後任のグナイゼナウに仕えて対ナポレオン作戦に心肝をくだき、1815年のワーテルローの会戦では、ブリュッヘル軍の第二軍団参謀長として善戦し、ナポレオンに勝つ戦法について確信を得た。フランスとの講和成立後はライン州に新設されたグナイゼナウ軍団の参謀長となり、その間、プロイセン解放運動の指導者として有名な政治家シュタインと交わり、政治を知る機会を得た。1818年、母校陸軍士官学校の校長(少将)となり、兵学研究の好機に際会するや二十五年にわたるナポレオンとの戦いを分析研究して総合体系づけた「戦争論」のまとめあげにとりかかった。「私の野心は二年や三年で忘れ去られるようなことのない本を書くことである」の言葉に象徴されるように「戦争論」の著述に心胆を注いだ。十三年後の1831年11月、既に元帥・ポーランド方面軍総参謀長になっていたクラウゼウィッツが没した時点でも「戦争論」はまだ完成しておらず、その後マリー未亡人(宮廷の皇后女官長)が整理して、翌1932年6月30日に刊行したものである。「戦争論」は、戦争の現実を収集分析し、科学的体系をもった兵学にまとめあげ、広く政治学・哲学・心理学との関連をもたせたことに特徴があるが、未完成の書であり、洗練されたものとはいえない。難解なのはそのためでもある。「戦争論」は教科書としてよりも、随筆・名言集としてより価値があると云われる。一冊の書としては歯切れのわるさを感じるが、その中の一句一句を抽出して論文等の例証に使えば、俄然光彩を発揮する。「戦争論」は、マキャベリの流れをくむ近代西洋兵学の原典であり、これまたクラウゼウィッツの悲願をこめた「憂国の書」である。