尉繚子・解説
「尉繚子(前220頃成立)」秦の始皇帝政(前259~前210)に仕えた「尉繚(前260~?)」の説を収録したものと伝わる。史記の秦始皇帝本記には「魏の大梁出身の尉繚という人物が秦にやって来て秦王政に諸侯の合従策を破る策を説いた」とある。秦王政はその策を用いて尉繚を厚遇して要職に就けたと伝わる。「尉繚子」の第一天官篇の頭書に「梁(魏)の恵王(前400~前319)、尉繚子に問うて曰く、」とある。秦王政に献策した尉繚と梁の恵王に諮問される尉繚と二人あってどちらもそれ以上の詳しい動静も記録も伝わらず、どちらが「尉繚子」ゆかりの人物かまた作者かは不詳のままで後人の偽作説もあった。しかし、1973年山東省銀雀山の漢墓から出土した竹簡の中から現存の「尉繚子」と基本的に同じ内容の残簡が発見され既に漢代の初期には他の「孫子兵法」「孫臏兵法」と同様に世間に伝わっていたことが証明された。尉繚子という兵法書は漢代以前、戦国時代に魏の国ゆかりの人物によって既に成立していた可能性が高い。その内容と論旨は明快に整っていて秦始皇帝の天下統一の背景思想を感じさせる。