三略・解説
「三略(600年頃)」武経七書の中で黄石公六韜・三略として著明な兵書で「韜略」という言葉はそのまま軍略を指すほどである。しかし作者不詳で成立年代も漢代末期、随以前等の説がある。六韜も三略も太公望ゆかりの兵書と云われるがその記述内容と形式は全く異なる。漢の高祖「劉邦(前256~前195)」の帷幄に在って此の如く謀り殊絶の功を建て帝王の師として後世にその名を揚げた「張良(前251~前186)」ゆかりの兵書が「三略」である。史記の「留侯世家」では韓の相国の家に生まれた張良は「秦」に滅ぼされた祖国「韓」のため復讐を企て巡行中の始皇帝を博浪沙で襲ったが失敗する。名を偽り下邳に隠れていた折に「黄石公」なる老人より一編の書を授かる。夜があけてその書を見れば太公望の兵書であった。不思議に思って日々朝夕通読し続けた結果、黄石公の予言通り十数年後には漢高祖劉邦の軍師として先ず宿敵の項羽を討ち、ついに祖国父祖の仇の秦を滅ぼした。この下邳の橋の上で授かった兵書が「黄石公三略」と伝わる。上略、中略、下略に浅深優劣は無く各篇は簡明簡潔に古書の名を借りて治世と戦(いくさ)の本質を表現している。張良を讃えて「帷幄の中で籌(ちゅう・計略)を巡らし千里の外に勝を決す」と云われるように個々の戦闘戦場の記載はない。武経七書はじめ作者不詳の古の兵書は後人の偽作として扱われるが、そこにある千載の風雪に耐えうる真理こそ名を潜め道を抱き続けた者の九地埋言である。やがて読み解く者の心を打って九天に舞う。