呉子・解説
「呉子(前380頃)」古来「孫呉の兵法」と称されるように孫子と並んで中国の代表的兵書である。著者は呉起(前440~前381)である。孫子(孫武)の仕えた呉が滅んだとされる前473に呉子(呉起)の年齢は30代で呉起が楚で亡くなって約60年後に斉の孫臏(~前320)も没している。それぞれ春秋時代から戦国時代にかけて活躍した兵法家であるが「史記」孫子呉起列伝には呉起は郷里の衛を出て儒家の曽子に学んだのち魯で兵法を学んだとある。その後、魯に仕え魏の文侯(在前445~前396)、楚の悼王(在前401~前381)に仕えるが楚の宰相時代に魏で将軍として文侯・武侯に兵法を説いた折の問答を兵書として編纂したと云う。当初四十八篇のうちの六篇だけが今日まで伝わった。兵書「呉子」はその思想的な厚みは孫子には及ばないが著述者・呉起の足跡は孫子(孫武・孫臏)より遥かに華々しいと云える。しかしあまりにも波乱で悲哀の大業であった。太史公(司馬遷)は「巷で軍事を論ずる者は、みな孫子十三篇を云々し、既に呉起(呉子)の兵法も世に多く伝わっているので敢てそれを論ぜず二人の行跡と事績のみ論じた、また能く之を行う者は未だ必ずしも能く言わず。能く之を言う者は未だ必ずしも能く行わず」と記して、孫臏は龐涓を謀ったが自らの臏刑の禍を未然に防げず、呉起も武侯の不徳を説きながら自らの恩情を欠いた刻薄残暴に気づかずに身を滅ぼした。悲しいことであると記している。